スピリチュアルを頭で捉えない

「~ねばならない」を捨てましょう、というけれど

「~ねばならない、を捨てましょう」って何だかよく耳にするんですが、当てはまる時もあるし、当てはまらない時もあるのじゃないかな、というお話。

先日、演歌歌手の友人M(女性)から電話があって、うちのすぐ前のカラオケボックスに大勢で居るから来いとのこと。

一応、息子も誘ってみましたが、行かないと言います。知らん大人の中で(しかも演歌メンバー)楽しめないと思ったのでしょう。

「あ、でも待って!チホちゃん来てる?来てるんやったら、僕、行かなあかん。」(チホちゃんは、Mの娘で小学生。息子とは、チホちゃんが幼稚園児の時に何度か会っています。)

「大人の中に子供一人でおるんは、つらいねん。だから、面倒見に行くわ。だって僕、昔、つらかったもん」

苦労や寂しさを経験したから、そういう思いやりが育ったんだと思います。

そういえば、先日テレビで耳の聞こえない少女たちによる千手観音の踊りの紹介があって、その演出家が、「悲しみを知らないと表現できない」って言ってたけど、

悲しみ、苦労、心の傷、トラウマ、寂しさ等々・・・・ネガティブといわれるものは、悪いものでもなんでも無いです。

多いより少ないほうが本人が楽なのは確かですが。

多すぎて本人が苦しすぎたり、それによって周囲も苦しいような時は、減らす努力をしたほうがよいかもしれないし、今まで必要だったけど、手放すときが来る時もあります(徐々にだったり、ある日突然だったり)

手放した時、感情は手放しても、貴重な経験は「宝石」として残ります。

悲しみや寂しさなどは、浅い時も深い時も、人間、長い人生の中で、いろいろあるけど、決してそれは、馬鹿にしたり批判したり、見下したり、恥ずかしく思うことでは、無いのだということです。

人に対しても自分に対しても。ネガティブは、いけないもので、必ずしも、すぐに手放さないといけないというものでもないし、あっちゃいけないって思ってごまかして見ようとしないとかえって歪みます。

かといって、ありのままで良いのよ~って、感情をむき出しにすればよいか?
というと、それはただの自己中です。

スピリチュアルブームはもう過ぎましたが、その中で経験や体験からくるものではなく、活字や人の話のみでわかった気になっていたり、自分に都合のよい捕らえ方をして、「本当の楽」ではなく、「安っぽい楽」を求める傾向が多いような気がするのは私だけでしょうか。

ちなみに、息子は、「(面倒を見に)行かなあかん。」という表現をしました。
最近あちこちでよく「捨てましょう」と言われる「~ねばならない」です。

小学生の面倒を見るのは、演歌世代の大人の中に、ひとり中学生がまじるよりマシとはいえ、わざわざやりたい楽しい仕事ではありません。(実際、息子は見たいテレビがありました)

「ほっとけない」という、義務感、半分。

後半分は、同じようなつらい思いをする子の気持ちがわかるから、僕が役に立てたら嬉しい、という気持ち。人の役に立つことによる、自分の存在価値の確認。

どっちもある意味、エゴかもしれません。

でも私は素敵と思いました(親ばかですが)わざわざやりたい楽しい仕事ではないが、「そうしたい」と思ったのは確かです。

だから、大いに評価したいと思います。「~ねばならない」という気持ちも。

すべての人に当てはまる言葉なんて無いです

スピリチュアル系の会話や本の中で、よく出てくる言葉・・・・

  • 「すべては必然」とか、
  • 「ありのまま」とか、
  • 「自分に正直に」とか、
  • 「開放」とか、
  • 「自分を認めよう」とか、
  • 「頑張らなくて良い」とか、
  • 「~ねばならない はやめよう」とか、 他にもいろいろありますが。

意味深い言葉であるゆえに、使うには、使い方があります。

Aさんに対するアドバイスとBさんに対するアドバイスで、 全く逆の事を言ったほうが良い場合もあります。

なぜか?

時、場所、位置(立場)、量 が違うからです。

すべての人にすべての場合に当てはまる法則なんてありません。

「偏り」を修正するとなにかと上手くいくことが多いです。 つまり「偏り方」が反対ならば、反対のことが当てはまってくる場合があります。

(ただし、第三者が見るのと、本人が実際はどうなのか? も違う事が多いし
判断するのは難しいですが。)

たとえば・・・

頑張らなくてよい?それとも頑張れ?

頑張りすぎの人に対して 「頑張らなくて良い」と言った方が良い場合もあるし、

あともう一歩の人には 「頑張れ、逃げるな」と言った方が良い時もあります。

どっちを言った方がよいかは、簡単ではない事も多いです。 いかにも頑張ってないように見えて、 本人にとっては限界以上の場合もあるし、 すごく頑張ってるように見えて、本人の目標達成のために、 「それだったら足りないよ。」と言う言葉が、生きる場合もあります。 工夫を加えることで、楽に、もっと頑張れる場合もあります。

自分のため?それとも人のため?

人の事ばかり考えて、自分をボロボロにしている人には、 「【自分のため】を考えることが結果、本当の【人のため】になるよ。」 というアドバイスが良いかもしれないですが、

自己中心的な考えによって自分の首をしめている人には、 「【人のため】を考えることが【自分のため】になるよ。」と 言った方が良いかもしれないです。

「~ねばならない」もいいもんだと書きましたが。

『スピリチュアルを頭で捉えない1~「~ねばならない」はダメなのか?』では「~ねばならない」もいいもんだと書きましたが。

「~ねばならない」に縛られすぎて、 ガチガチになってる人に対しては、 「それを捨てたら楽になるよ」って言った方が良い場合も、もちろんあります。

中庸

一つの真理や法則を、 すべてにあてはめて、なんにでもそれを言うのは違うと思います。

ようは、中庸なのではないでしょうか。

まず、どっちに偏ってるのか?

相手の許容量は?

相手の目的は?

同じ言葉でも、人によって受け止め方の癖が違うけれども、この人に、この言葉は、どう響くのか?

時は?

いつ言うのが効果的か? 今言って良いのか?

場所は?

どこで言うのが効果的か? ここで言って良いのか?

位置(関係性)は?

  • 上下関係は?
  • 関係性は薄いのか濃いのか?
  • 相手が心を開いているかどうか?

が違うと、伝え方も変えないと失礼な事になります。

量は?

  • どっちに、どの程度偏っているか?
  • 色んな条件によって、どの程度言えば良いのか?

足りないのも過ぎたのも、効果が薄いです。

私もたまに失敗するんで人の事言えないんですが

自分に対しても人に対しても、安易に単純に、今はやっている言葉を使うのはどうかな? って言いたかっただけです。あまり理屈で考えすぎずに、心で感じたら、

わかってきやすいかも?しれません。

ただし自信と傲慢の中間がいいというわけではありません

中庸だけなら説明としてイマイチ足りない点があるので捕捉しておきます

誤解されそうな点もあるので、書き足します。「中庸」の他に、もうひとつ大事なことがあります。

言葉の意味の解釈の仕方。

例えば、よく言われる「自分に自信を持つ」

  • 自身が過ぎたら→傲慢になる
  • 謙虚や反省が過ぎたら→自信不足

だから、中庸が良い?(自信持ちすぎても謙虚過ぎてもアカンのでは?)

これは違います。

  • 本当の自信=謙虚(反省できる人)・・・同じ意味です。
  • 自分に自信が無い(劣等感)=傲慢・・・・同じ意味です。

自分を下に見る=自分を上に見る=他人を下に見る=他人を上に見る
これは全部同じ意味です。

つまり○○ができるから自信があるとかではなくて、良い点も悪い点も、得意な所も苦手な所もありのままの自分を認識し、それで良いのだと思う事、他人と比べて上げたり下げたりしない、自分は自分、他人は他人と思って比較しない、人と人との本来の価値は対等であると思っている事が謙虚なのであって、

誰かと比べて自分は下だと思うということは、つまり違う誰かと比べて上だと思ってしまう、つまり比較の中で生きていることが傲慢であり劣等感なのだと思います。

もちろん、私が比較しないって事を出来ていると言っているのではありません。
人間ですから、カンペキな人はいないです。あ~また比較しているな~と認識しつつ努力をして行きたいなと思います。

言葉の意味合いの話でした。

上高地